キリマンジャロ山で起きていること(2)-蒸し返される議論

10/21に発生したキリマンジャロ山での山火事の模様(10月25日 The East African電子版)

10/21に発生したキリマンジャロ山での山火事の模様(10月25日 The East African電子版)

 

先週金曜日にキリマンジャロ山で起きた森林火災は、いったん納まりかけたものの強風に煽られ、再び火が盛り返しているという。

 

植林で木が大きくなるまでには何年もかかりますが、燃えてしまうのは一瞬のことで、一刻も早く完全鎮火にすることを願っています。

 

その一方で、今回の森林火災でまたぞろという議論が先進国の専門家から出されています。それは「森林火災は多分に人為によるものであり、国立公園を拡大した施策で森は守られるようになった。今後国立公園はさらに広げられなければならない」というものです。

 

2022/10/25付 The East African電子版

“Kilimanjaro: Fires shaped the mountain’s unique environment - now they threaten it”

https://www.theeastafrican.co.ke/tea/news/east-africa/fires-now-threaten-kilimanjaro-s-unique-environment-3997036

 

またぞろと書いたのは、2020年にキリマンジャロ山で大規模な森林火災が発生した際も同じ議論が展開されたからです。

 

森林を守ることに異議はありません。しかしこの議論は、国立公園とすることが森林を守る最善策であるということを暗黙の前提としています。果たしてそれは正しいでしょうか?

 

またこの議論は、森ばかりを見て、そこに長く暮らしてきた人々がいること、そして長い歴史の中で受け継がれ、築かれてきた伝統や文化、生活体系がそこに根付いていることをまるで見ようとしていません。さらに言えば、森を守ってきた山麓住民の能力を一顧だにしていません。 それだけではありません。山麓住民が利用を認められていた森林まで国立公園を拡大した結果、何が起きたでしょう。国立公園に配置された武装ワーデンによって村人の命が奪われ、女性が暴行され、人々は日々の煮炊きに使う薪や家畜の飼料、伝統薬の採集にも苦労するようになり、森林に源を発する伝統水路の維持もできなくなりました。国立公園の拡大に人々は苦しみ、生活は間違いなく貧しくなりました。

 

森は見るが(能力や文化なども含め)そこに暮らす人々は見ない、自然を守るためには人を追い出せば良いという古典的で単純な発想は、それを言う者の傲慢でしかありません。アフリカの人々をまるでそこにいないように扱う、見下したような議論はいい加減やめていただきたいと思います。

 

キリマンジャロ国立公園と同じ世界遺産であるンゴロンゴロ自然保護区でも、自然や野生動物を守るためとして、そこに暮らしてきたマサイの人々が退去を迫られています。彼らにとってそこは“生活の場”です。彼らを追い出す前に、生活とは関係ない余暇で訪れる観光客によるオーバーユースを厳しく指摘し、制限するのが先でしょう。キリマンジャロ山にしても国立公園の拡大を言う前に、観光客誘致のためにその国立公園を縦断し、富士山頂を越える標高4千メートルまで達するようなケーブルカーの建設計画に異を唱えるのが先のはずです。住民軽視の姿勢は、公正さという点においても問題があると言わざるを得ません。