2024年11月 CARE UKRAINE Newsletterより
オレクシーさんはドネツク州ポクロフスクで生まれ育ちました。2022年に戦争が激化した後、彼と彼の家族は故郷を離れ、ドニプロへの移住を余儀なくされました。
現在、ポクロフスクは占領の脅威にさらされています。街の出入り口は安全上の理由からすでに閉鎖されています。しかし、オレクシーをはじめ、多くの人々にとって故郷を離れざるを得なかった今、その街を失うことは、子どもの頃の思い出や幸せだった過去の破壊を意味しています。
「ポクロフスクの思い出は、最愛の場所の思い出」
ポクロフスクは、本格的な戦争が始まる前までは、私の人生のすべてでした。私はこの街で生まれ、育ち、学校に通いました。そして人道支援活動ワーカーとしてのキャリアをスタートさせたのもポクロフスクでした。
一番鮮明に残っている記憶は…むしろ特定の場所にまつわるものです。
例えば、私たちには特別な公園がありました。ドニプロですら、それに匹敵するものを見つけることはできませんでした。その公園は大きなテーマパークのように輝き、あちこちに噴水がありました。ポクロフスクに対する私の印象は、平和で、何よりも発展し続けていた繁栄する街というものです。雪景色のロマンチックさと静けさも印象に残っています。
「去る時、街には二度と戻れない気がした」
戦争が激化したとき、ポクロフスクは静かでした。特に最初の数日は。
しかしその後、砲撃が始まり、3月に私たちは避難を決意しました。本当は去りたくありませんでした。二度と戻れない気がしていました。それでも、心のどこかで、いつか戻れるという希望を抱いていました。
ポクロフスクの中でも何度か移動しました。妻の両親の家に住んだり、私が働いていた人道支援団体のゲストハウスに住んだりしました。それは壮絶なものでした。私、妻、子ども、ヘルメット、防弾チョッキ…
そして常に「もし砲撃を受けたらどうするか」と頭の中で考え続けていました。考えたくはありませんでしたが、考えざるを得ませんでした。毎日が最後の日になるかもしれないという現実が、はっきりと理解できました。
そしてついに、私たちは荷物をまとめ、他の親戚たちと3台の車で避難しました。
「ニュースを見ていると、自分のこども時代を過ごした街が破壊されるのを目の当たりにします」
多くの人にとって、ポクロフスクは今やドニプロペトロウシク地域の手前にある最後の大きな街でしかありません。そして、多くの人がそのような観点で心配しています。しかし、私にとっては、そこは故郷です。
この2年半で、私は自分を客観的に保つ方法を学びました。マリウポリやバフムート、他の街についてのニュースを見てきたからです。今では、人々を支援しながら働くことで、この状況を乗り越えています。私たちはこの状況を受け入れました。
実際、精神的な準備することは非常に難しく、ほぼ不可能です。もし、神が禁じたとしても、街が破壊され、家がなくなったというニュースが流れたら、私は極限の感情に襲われるでしょう。しかし今のところ、冷静で理性的な心を保っています。
ポクロフスクを最後に訪れたのは2024年の春でした。妻と一緒に彼女の両親を訪ねました。当時はまだ前線は遠く、街の生活は比較的落ち着いていました。確かに、街は損傷を受けていましたが、それでも馴染みのある場所を見ていると、胸が張り裂けそうでした。